Twitterアカウントを削除した話

Posted on:July 1, 2023   at 04:10 PM

Twitterは台湾に来るくらいのころから始めたので、もう12年くらいやっていたことになる。ぼくのアカウントは最終的にフォロワーが2000強いたので、特にマーケティング意図などもなく、他メディアでの活動もない一般人が運営しているにしては、それなりに注意を惹くアカウントに育ったと思う。それを削除した。なぜかという話を書いておこうと思う。

Twitterのおもしろさと苦しさ

もともと対して真面目に使っていなかったのだが、140字という制限のなかでどこまで内容を詰め込めるか?というのをゲーム的に捉え始めたところからおもしろさがわかってきたように思う。フォーマットの中での表現を追求するという点で、Twitterは短歌に似ている。書きたいことを書きたいように書くと大体文字数は大きく超過する。そこからどこまで贅肉をそぎ落とせるか、というところがテクニックの見せ所なのであるが、これにはそれなりに労力が要求される。何度も自分のツイートを読み直すから時間もかかる。1回のツイートのために2時間くらいかけることもあった。これは非常にストイックな行為である。内容を豊富にするために2時間かけるのではなく、内容を削るためにその時間を使うのだから。ことばは削れば削るほど、輪郭は抽象的になっていき、生まれたほんの少しの隙間からなにかが零れ落ちていく。その零れ落ちていくものが往々にして大事だったりもする。だからツイートしたあとに感じるのは、決まっていつも「うまく書けなかった」「こんなことなら書かなければよかった」という無力感である。ぼくにとってツイートは常に中途半端で曖昧で未完成だった。字数制限というおもしろさを受け入れるゆえに、宿命的に「書ききった、だから悔いはない」という感覚には永遠にたどり着けないものでもあった。自分自身のなかで悔いはない、という境地にたどり着けない適当なものづくり(ツイートもぼくの中ではものづくりである)は、自分で絶対的な信頼をおけない分、必然的にその価値を他人の評価に依存するようになる。ツイートの場合、つまり、いいね数やリツイート数だ。こんなものの数字に心が乱れたりもする。くだらないと思いながらも無視できない。ぼくはそれが苦しかった。これから抜け出すには、ツイートではない、悔いのない書き方ができるやり方で、何かを書く必要があると気付いた。

むろん、Twitterはそもそも一言二言を文字通り「さえずる」ものだったのだから、気軽にやればいいとも考えた。しかし、やはり時間をかけたツイートに多くの人が反応してくれたのは確かであるし、ぼくのアカウントはまさにその積み重ねによって育ったのだと思う。逆に言えば、ぼくのアカウントに期待されているのは、そういうものである。だから、いきなり「芸風」を変更することは、フォロワーに失礼だと考えた。芸風を変えるのであれば、別人として生き直し、別人として出会いなおすべきであると考えた。

日本の方ではなく、台湾の方を向いていたい

Twitterは日本ではユーザが多いが、台湾にはほとんどいない。だから台湾に関する情報発信も日本語で日本人に向けてやった方が合理的である。事実、Twitterを介してそういうことをしている日本人はたくさんいる。器用な人はそれらをマネタイズしたりもしているだろう。海外在住という立場を生かして、その土地の識者として自国にアピールするというスキームは良いと思うし、それを通じて他国への関心が高まる人もいるだろうから素晴らしいと思うが、すでにそれを実践している人が巷に溢れている状況で、あえてぼくがそれをやる意味も感じられなかった。にもかかわらず、ツイートを考えている時間は、ぼくは日本人と向き合おうとしているわけで、これは矛盾である。ぼくが毎日リモートワークで日本人と一緒に仕事をしているということもあるかもしれない。仕事の他に使える時間を、日本人にではなく、台湾人に向き合うことに使いたい。身体は台湾にあるにしても、日本の方ばかりを向いていたら、それは本当に台湾で生きていると言えるのだろうか?未来はどうなるかわからないが、少なくとも今、ぼくは台湾で生きていると胸を張って言いたいのである。

ぼくは台湾を知らない

台湾のことを書きたいという気持ちはあるが、ぼくは台湾のことを何も知らない。10年住んでいても、それは変わらない。ぼくたち日本人が、日本にずっと住んでいても、日本のことを必ずしもよく知っているわけではないように、他の国でもそれは同じである。台湾人ですら、台湾のことを知らない。台湾を知るには、ただ住んでいるだけではだめなのだ。ぼくはそういう気持ちで大学院に入った。早いものでもう前期が終わり、相当な学びがあった。心底行くという決断をして良かったと思う。しかし、この経験がアウトプットに反映されるようになるにはまだ少し時間がかかるだろう。次の「芸風」は、これらを組み込んだアップデート版の、台湾を少しだけ知った康凱爾でありたい。

今後

アカウントを削除する宣言に対して、わざわざリツイートなどで残念だと言ってくれる人が何人かいた。このことは深く記憶に刻まれ、忘れることはないと思う。そう言ってくれる人のためだけにも続けたいとも思ったが、上のような理由で、いちど区切りをつけることにした。Blueskyには興味があるから、一般公開されたらアカウントを作るかもしれない。その時は「別人」となっているかもしれない(なっていないかもしれない)が、またTwitterで知り合った皆さんと何かの縁で繋がれたら幸いである。

追記(2023/8/11)

上記の流れで一時は本当に削除したのだが、友人に今後の人生では台湾文化研究者として活動していきたいとか、修士論文を本にできないかなどの相談をしている流れで、見事にすべての友人から「そういう気があるならアカウントを消すな、とりあえず保留しておけ」と言われたので、調べてみると削除してから30日間は復旧できるというルールがあることを知り、考えを改めてアカウントを復旧させた。あと1日遅かったら復旧できなかったのでまさに首の皮一枚という感じである。前言撤回でカッコ悪いと思うのだが、まあなにぶんすでに人生も折り返し地点を過ぎており、残りの使える時間もふんだんにあるわけではないから、目的に向かって少し戦略的に生きていったほうがよいのだろうと思っての決断である。ただ、あくまで活動の情報発信用として残すことにしたという体なので、やはりTwitterではしばらくの間、研究活動がなにか報告できるような成果を生むまでは、日常をつぶやくことはないと思う。友人のおかげでBlueskyをはじめることができたので、それまでの間はBlueskyでくだらないことをつぶやくかもしれない。