台湾語を学びたいあなたへ

Posted on:April 27, 2023   at 11:37 PM

いきなりだが、あなたが台湾語1を学ぶ必要はない。

必要性という観点から考えれば確実にそうなる。スキルとして必要とされる場面は、台湾語でないと意思疎通が困難な世代とかかわる仕事(介護とか)に従事する時くらいのものだ。事実、高齢化が進む台湾社会は介護の人手を必要としており、その多くを東南アジアからの労働力で賄っている。彼らにとっては必要なスキルと言えるかもしれない。しかし大方の日本人はそういうことをしない。人の時間は有限だから、同じ時間を他の技能の習得に回した方が何かと「トク」だ。効率性を重んじる現代社会ではなおさら無駄は忌避される。だからあなたが台湾語を学ぶ必要はない。これは合理性に基づく主張だ。

ところで、このような考え方は我々外国人にとっては言うに及ばず、当の台湾人にとっても受け入れられている。本屋の語学コーナーで台湾語の教材は探す方が難しいし、街中の語学スクールなどでも台湾語を教えているケースは稀だろう。台湾人はみな学ばずとも、台湾語を家庭で習得できるからだろうか?そうではない。たとえば客家系の人々は一般的に台湾語を解さないが、台湾人だ。台湾は多民族社会だから、両親のエスニシティによって習得できる言語も異なる。だから台湾人だから台湾語を話せるわけではないし、そうあるべきでもない。少なくともぼくはそう思う。

それはなぜか。言語とアイデンティティを結びつけるやり方で、人間はたびたび過ちを犯し、悲しみを生んできたからだ。かつて台湾人が日本語を話し、そして今、台湾人が中国語普通話を話しているという事実こそが、その悲しみの歴史そのものだとも言える。台湾語と台湾は一対一の関係ではない。それを考えれば、「台湾にいるなら台湾語を話すべきだ」というモチベーションで台湾語が学ばれるのはおかしい。

それでも台湾語を学ぶ人はいる。ぼくもその一人だ。そのとき台湾人にとってのモチベーションは、たとえば失われつつある自文化を保存するためだとか、色々考えられると思う。ぼくのような外国人はどうだろう?台湾語を学ぶことで台湾と共にあることをアピールできる?それは台湾社会での台湾語の代表性を暗に肯定していて、そういうネイティヴィスト的な政治活動だと意識してやっているなら良い(良くないか)けども、やはりちょっと短絡的だろう。台湾語を学ぶことが「台湾」にコミットすることには、必ずしもならない。


さて、ここからが本題だ。これまでをまとめれば、台湾語を学んでもトクなことはない。台湾語は台湾全体を代表しない。じゃあなぜそんな台湾語を学ぶのだろうか。ぼくはそれを合理的なスキルの習得が目的の営みとしてではなく、台湾への連帯の表明としてでもなく、もっとシンプルに、ひとへのコミットと読み替えると良いと考えている。台湾という国にコミットするのではなく、周囲の台湾語を話す「ひと」にコミットしよう、という提案だ。言い換えれば、ごく少数の人々のために、役に立つわけでもない技術を身につけろということになる。実に非合理的だが、ぼくはその非合理性のなかにこそ、なにか大事なことが隠れている気がしてならない。

たとえばぼくの妻は台湾語を話す。妻の家族も話す。友人も話す。彼らは外国人が台湾語を学ぶことの「異常さ」を敏感に感じ取る。台湾語を学ぶことは、彼らへの敬意の表明として、あるいは親密になりたいという気持ちの表明として機能する。すると彼らもそれに真摯に応答してくれる。ぼくは台湾語を学ぶけれど、それは台湾という国とは関係がない。ただぼくの好きなひとたちが、たまたま台湾語を話す台湾人だっただけ、もっと仲良くしましょう、というわけだ。どうだろう、国という実体のないものをあれこれと想像しながらその意味を探っているより、よほどリアリティがあるじゃないか。

そう考えると、台湾語を話す台湾人を愛してしまった人、あるいは台湾語を話す台湾人により深く愛されることを望む人は、台湾語を学んでも良さそうだ。そうでなければ、まずは外に出て、愛したり、愛されたりしたいと思える人間関係を台湾人との間で作ってからまた考えたほうがよいだろう。

もしあなたが何かの縁あってその先にいて、ただ目の前のだれかのために台湾語を学ぶ気になったのなら、あなたはぼくと似ているかもしれない。これから書き残すぼくの台湾語の学習記が、そんな人の助けになれば幸いである。

1. そもそも台湾語とはなにか、という controversy なトピックもあるのだが、ここでは台湾で話されている閩南語のことを便宜的にそう呼ぶ。